アナザーライフ

目指すのは、NO.2の中のNO.1。「壊さぬ信頼」モッ
トーにゴミ山から宝探しを。

2020.01.29

【トマト銀行提供】岡山県を中心に解体業を営む、株式会社勇成建設代表の前原さん。父の背中を追って飛び込んだ解体業の世界で出会ったものとは?「地域で出たゴミを、地域で再利用する」好循環を生む仕組みを作りたい、と志高く解体業の可能性を語ってくださいました。

前原 喜一/まえはら きいち|株式会社勇成建設代表取締役社長

1980年、広島県生まれ。2歳で父の実家である岡山県高梁市に引っ越す。父が解体工事業で独立してすぐに病気で亡くなったあと、事業を継ぎ現在の株式会社勇成建設を創業。解体工事業だけでなく、リサイクル事業にも注力し、地元の活性化に貢献している。

父の背中が大きかった幼少期

広島県福山市で生まれ、2歳のときに父の実家である岡山県高梁市に引っ越しました。とにかくやんちゃな子どもでしたね。遊び場はもっぱら、山や畑。田舎だったので自然の中を駆け回って遊んでいました。畑の大根をバットにするなど、悪戯を仕掛けるのが好きでしたね。でもそれがバレると、ものすごい怒られるんです。怒られるのが嫌だったので、そのたびに泣いてましたね。泣き虫な子どもでもありました。でも懲りずにまたすぐ外に飛び出して行って、悪戯する。その繰り返しでしたね。

怒られるのは本当に嫌だったので、どうしたら怒られないかを考えるうちに、人の顔色を伺い立ち振舞うようになりました。「あ、怒られるな」っていうのが、親や先生の顔を見ればわかるんですよ。その場で怒られない方法を瞬時に考えて言葉を選んだり、伝え方を工夫したりしていました。次第に、人の感情を汲み取るのが得意な性格になりましたね。相手の表情や口調に出るイライラや喜び、喜怒哀楽を感じ取れるようになったんです。人が好きなので、基本的には人懐っこいんですよ。可愛がられるタイプだったので、同級生や先輩に囲まれて過ごしてました。

怒られることは多かったですが、そんな自分を庇ってくれたのが、父でした。父が仕事から帰ってくると、安心したほどです(笑)。父は町役場の建設課で働いていました。幼少期から父が働く工事現場に、よく遊びに行っていましたね。ブルドーザーやショベルカーなど大型の車に乗る父の姿がかっこよく見えて、中でも特にトラックが好きになりました。「将来は自分もあれを運転したい!」と思うようになり、小学校の文集には「運送業者の社長になる」と書きました。

父の影響で好きになったのがもうひとつあって。それが、自然です。アウトドア好きな父に連れられて、キャンピングカーでいろいろな場所へ行きました。自然の中で身体を動かして、自分の手で作業する感覚に面白みを感じたんです。そんな自分の成長をそばで見守ってくれていた父の背中は大きかったですね。

その後、中学・高校と地元の学校に進学しました。学校生活は楽しいけれど、特に打ち込めるものも見つからない日々。中学ではテニス部、高校ではソフトボール部に入りましたが、それほど熱中できませんでした。バイクの免許を取ったりもしたんですが、夢中になるほどの趣味にもならず…。将来のやりたいことや夢もなく、ただ友達と遊んで楽しい日々を過ごす学生時代でした。

人生で初めて夢中になれた

卒業後は、地元のコンクリート製造機械の工場へ就職。海外に出張に行けて、稼げると聞いて「やってみたい! 」と入社を決めました。ところが実際は、毎日工場の中で同じ事の繰り返しで。もちろん出張に行けることもありましたし、面白さを感じることもありました。でも正直、心の中では、充実しているとは言い切れない日々を送っていました。

そんな折、父が町役場を早期退職して解体工事業に転職すると決めたんです。仕事内容を聞くと、好きなトラックに乗って働けると聞いて。「面白そう!」と、その後、父を追って同じ会社に転職しました。

実際に解体工事業をやってみると、「これはもう、天職だな!」と思いましたね。毎日やることが異なるため、変化があって楽しい。解体する建物に一つたりとも同じものはありませんから、毎回現場が異なるのも新鮮でした。それに自然の中で身体を動かせるのも気持ちが良くて。太陽や風、雨などに肌で触れられる環境が自分には合っているなと感じました。飽きる事なく、夢中になって続けられましたね。人生で初めて打ち込めるものに出会えた瞬間でした。

背中を追いかけてきた、父が他界

転職して2年ほど経った頃、父が解体工事業として独立しました。私も折を見て父の会社へ移ろうと、準備をしていた矢先。突然、父が倒れたんです。病院へ行ったところ、末期がんだと判明。その後、わずか4カ月後に帰らぬ人となりました。56歳の誕生日前日のことでした。

本当にショックで、途方にくれました。遺ったのは、父が立ち上げた事業。私は解体業の経験はありましたが、経営となると何もわかりません。父が亡き今、続けていけるのか。迷っていましたが、父と共同創業した23歳の専務が「お客さんのために、やらないといかん」と言ったんです。父が立ち上げた会社には、すでに少なからずお客さんがいました。

その言葉で腹をくくって。まずやってみよう、と父の会社を自分たちの手で存続させていくことを決意。26歳で個人事業主になり、専務と幼馴染と3人で事業を動かしていきました。

とはいえ、そう簡単にはいきません。経営の知識は無く、請負金額も安かった。毎日朝から晩まで働き続けるものの、薄給の日々は続き、社員に給与を払えず、入金を待ってもらうこともありました。そんなときは同級生がお金を貸してくれたりと、援助を受けてなんとか乗り切ってました。業務も人手不足だったので、還暦を過ぎた母がトラックに乗ってくれたり、友人が働きに来てくれたりと、周囲の力を借りながら事業を成り立たせていました。

地元での仕事が少なかったことから、2時間かけて遠方の現場に行くこともざらでした。早朝6時には家を出て、夜の21時ごろ帰宅。そんな日々を4年ほど続けましたね。正直辛かったですが、踏ん張り続けられたのは、意地でした。同じ時期に創業した解体工事会社がいくつもあったので、負けたくない!と、闘志を燃やして前を見続けました。

そうするうち、次第に仕事に自分の強みを活かせるようになりました。幼少期に培った「人の気持ちを汲み取る能力」です。同業他業者問わず、相手の気持ちに最大限想像力を働かせ、事がうまく進むよう言葉を選んでコミュニケーションを図っていました。人間関係にも細心の注意を払って立ち振る舞ったりと、かなり気を遣っていましたね。

というのも、解体工事業は「嫌われる」ことが多い仕事なんです。工事が始まれば、音が出るしゴミも出るので、近隣住民の方が迷惑することもありますし、解体に反対の方もいらっしゃる。そういった方々に、どんな言葉を遣い、どのように伝えたら納得していただけるのか。常に思考錯誤しながら、人の感情の機微には敏感に話したり、行動したりしました。石橋を叩きすぎると母に言われるほど、堅実なんですよね。なかなか納得いただけない住民の方がいたら、何度も訪問して説明に上がったり、お茶菓子を持参したり。「空気が読める」自分の強みを活かして関係構築を心がけると、大きなクレームもありませんでした。ひとつひとつ積み重ねると、徐々に成果も出て、周りからの評価もいただけるようになり、ついに30歳になった年、株式会社化を果たしました。

「No.2の中のNo.1」の会社を目指す

株式会社化した後も、コツコツ努力と実績を重ねるうち、リピーターのお客さんも増え、会社に推進力がついてきました。そんなとき、「こんな勢いのある会社が、入札に入ってきたら、俺ら取れんようになるな」とある建設会社のお客さんから言われたんです。私たちは市の入札に参加して、受注することもできるようになっていました。

しかし、「それは自分たちがやりたいことと違うな」と思ったんです。仕事がないとき、多くの建設会社さんに支えてもらいました。その恩を仇で返すようなことはしたくない、と。それなら入札には参加せずに、建設会社を下支えするポジションを確立しようと思いました。入札できる、NO.1の会社にならなくていい。その代わり、入札した会社が一番に指名してくれる、「No.2の中のNo.1」になるんだ、と。それを重点戦略に置き、受注を増やしていきました。

さらに、そこからは組織をよりよくする施策も始めました。社員が不満を溜め込む前に解消できる仕組みを整えていったんです。例えば、「交換ノート」を導入しました。有給休暇が取得しにくいとか、ささいなことだけど現場で気になる点があったとか。日頃の業務に流され「ま、言わなくてもいいか」と放っておいてしまいがちなことも、ノートになら書きやすかったりします。人間関係のトラブルとなる芽を事前に摘んでおけば、事故や退職を未然に防ぐことができます。

強みである、人の気持ちに想像力を働かせる力は、社員のモチベーションを上げる方法や、人事配置、組織課題の解決方法まで、役立つんだと思いましたね。

さらに、時代の変化に柔軟に適応できるよう心がけました。田舎の建設業ですから、どうしても都心より情報を汲み取るのが遅くなる傾向にあります。未だにホームページがない企業も少なくありません。自分自身が変化を好む性格もありますが、事業がうまく回ったり、社員が働きやすくなるのなら、新しい施策は積極的に導入したいなと考えたんです。やってみてボツになるものもたくさんありましたが、まずやってみることを大事にしました。その甲斐あって、解体業は離職率が高い業種にもかかわらず、長年勤務してくれる若い社員が多くなりました。

ゴミを再生可能にする取り組みは、地域の再生にも通じる

現在は、勇成建設の社長を務めています。建物の取り壊しだけでなく、産業廃棄物の収集・運搬も行っています。加えて、個人の廃棄物を収集した中から比較的保存状態が良いものを選別し、再利用するリサイクル事業も始動しました。リサイクルした品は、ネットオークションに出品したり、業者への販売したり、発展途上国への輸出したりしています。ゴミの山から宝探しをしている感覚ですね。

今後は、個人だけでなく法人のゴミもリサイクルする、中間処理施設を作りたいと思っています。例えば、家を壊したら大量の木材が出ますよね。それをゴミにするのではなく、木材チップや燃料に再利用するんです。ビニールハウスの熱原料や、たい肥の材料に利用すれば、地元の農業振興の一助にもなります。二毛作ができるビニールハウスを作るなど、農業がしやすくなれば農家も増えると思うんですよ。そしたら雇用も生める。ゴミを焼却したエネルギーで発電だって可能だと考えています。よく、地産地消と言いますが、「地域で出たゴミを、地域で再利用する」好循環を生む仕組みを作りたいと考えています。

そんなふうに考えるようになったのは、地元へ恩返しがしたいと思うようになったからです。高梁市は過疎化の進行が速い地域で、このままだと人口は減る一方。私は解体工事業を生業として、たくさんの家屋を壊してきました。家を壊して、更地になった土地を見て切なそうに「ありがとう」とお礼してくれるおばあちゃんの表情をみると、仕事とはいえ、少し寂しい気持ちにもなるんです。

自分の通った中学校が廃校になった時も、自分の手で壊しました。その後に同級会があって、同級生は「母校なくなるのは、寂しいよな。でも知らん人が壊すより、お前が解体してくれてよかった」と言ってくれて。その言葉はうれしかったですが、やっぱり母校を壊したことは寂しかったです。手放しには喜べません。この仕事は必要な仕事だけど、人に寂しい思いをさせているから、何かで返したいという思いが積もっていきました。

ゴミを再生可能にする取り組みは、地域の再生にも通じる。雇用を増やし、人口を増やし、活気ある街にしたいんです。だからこそ目の前の事業を加速させることが、地元への恩返しにつながると思っています。地元に支えられ、生かされてきたからこそ、地元を盛り上げたい。自分を突き動かすのはそんな使命感なのかもしれません。

会社を大きくして雇用をうみ、消費を生み出すサイクルを作る。地域で出たゴミは、地域でリサイクルして農業振興やエネルギーに還元する。そんな好循環が少しずつ波及させていきたいです。解体業者である僕らの理念は、「壊さぬ信頼」。地域の、取引先の信頼を大切にして、目標を実現させていきます。



2020年1月27日

前原 喜一/まえはら きいち|株式会社勇成建設代表取締役社長

※この記事はトマト銀行の提供でお送りしました。

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このインタビュー記事は、外部インタビューサイト
・アナザーライフ
https://an-life.jp/
にも掲載されています。

執筆者

日本情報マート

中小企業の頼れる情報源として、経営者の意思決定をサポートするコンテンツを配信。「開業収支」「業界動向」「朝礼スピーチ」など2000本を超えるコンテンツを有するほか、年間200件以上の市場調査も行っている。現在、50を超える金融機関に情報提供を行っている。