アナザーライフ
現場で培った仮説思考で漁業の今後を見据える。 牡蠣のブ
ランド化と資源管理型漁業で活気を。
2019.01.18
藤井和平さん/ブランド牡蠣の養殖・販売
【トマト銀行提供】岡山県の北木島で養殖牡蠣を生産・販売し、牡蠣のブランディングに力を入れている藤井さん。幼い頃からの憧れだった漁師になったものの、漁の現場は現状を嘆く声が多く、不安を感じました。漁業の課題解決に取り組むべく、周りの漁師を巻き込むために藤井さんが取った行動とは。お話しを伺いました。
仕事人間の父の背中を見て育つ
兵庫県で生まれました。やんちゃな性格で、友だちと外で遊びまわることが多かったですね。争いごとが嫌いで友だちと揉めることはありませんでしたが、2歳下の弟には言いたいことを言って兄弟喧嘩ばかりしていました。
父は清掃会社で働いていました。仕事ばかりしていて、ほとんど家にいませんでしたが、たまに清掃車に乗せてくれたんです。大きな車を運転している姿がかっこよくて、将来はトラックの運転手になりたいと思いました。
小学3年生の時、両親の故郷である岡山県笠岡市にある北木島に引っ越しました。祖父が北木島で漁師をやっていたので、引っ越しを機に父は漁師になりました。漁師になっても父は仕事に打ち込んでいました。真面目な性格で、遊びは一切せず、仕事一筋。仕事場に連れて行ってもらって、そこで父と話をするのが好きでした。活き活きと仕事をしている父を見て、漁師になりたいと思うように。高学年になると仕事を手伝うようになり、父に見守られながら漁船の運転もしました。ますます憧れが強くなり、小学校の卒業文集に夢は漁師と書いたほどでした。
中学に入って、バレー部に入りました。部活の仲間と一緒にいられることが楽しかったですね。父と船に乗ることよりも部活に熱中しました。勉強は大嫌いだったのであまりせず、本土にある工業高校に進みました。
高校を卒業したら漁師になることも考えましたが、父からあるお米の会社への就職を勧められました。話を聞いてみると、暴れん坊で性格も悪くて手がつけられなかった父の知り合いの人が、その会社に勤めてから人が変わったようにいい人になって、顔つきも見違えたそうなんです。それだけ人が変われるってどんな会社なんだろうと興味が沸き、その会社に就職することにしました。
水産会社で経験を積む
お米屋さんの営業として、新規開拓の仕事を任されました。仕事はうまくいきませんでしたね。消費者であるお客さんへの言葉遣いや態度が半人前で、お客さんに全く相手にされませんでした。このままではダメだと思って、相手の立場に立って物事を考えたり、可愛がってもらえるような態度をとったりすることを少しずつ覚えていきました。
入社して3年が経った頃、会社に違和感を感じ、転職を考え始めました。漁師になろうかとも思いましたが、魚をさばいたり網を繕ったりしたことがなく、いきなりやっていけるのか不安を感じました。それで、漁師になる前に笠岡市にある水産会社でアルバイトをして勉強することにしました。
水産会社では、市場に配属され、マグロやカジキをさばく仕事をしました。慣れてきた頃、正社員に昇格。営業をしたいと思って、営業部署に異動させてもらいました。営業では、スーパーの店頭でマグロの解体ショーを行って、消費者と話して直接魚を売る仕事をしました。そこで、バイヤーの考え方や物流について学ぶことができましたし、喋りが達者になりましたね。
入社して3年ほど経った頃、会社が赤字で破綻しそうな状況になりました。営業を頑張って数字を伸ばしたのですが、社内では評価されませんでした。段々と会社で働く意味を感じなくなってきて、自分で頑張ってみた方がいいのではないかと考え始めるように。ちょうどその頃、北木島で暮らす父が怪我をしたんです。その時、北木島に戻って漁師になるなら20代後半の今しかないなと思いました。それで、北木島で漁師になる決意をしました。
数字で証明して資源管理型漁業を開始
北木島に帰って、まずは獲った魚を本土に運ぶ仕事をしました。それから、船に乗って漁も行いました。漁では、定置網と言って、海の中に網を置いて魚を獲っていました。定置網漁業では、魚をたくさん獲るため、港で前もって段取りを組むんです。沖では予期せぬことが色々と起こるため、それも含めて事前に対応を考えるようになりました。今これをすれば後々こうなるなと、先々まで見据えることが習慣になりましたね。
漁の現場では、先輩たちがいつも現状を嘆いていました。「昔はあんなに魚が獲れて、あれだけ相場がよかったのに、今の状況はひどい」と。マイナスなことばかり話されるのを聞きながら、不安になりました。同時に、網に掛かる魚を獲れるだけ獲る漁業に未来はあるのだろうか?と考えるようになりました。
そんなある時、先輩に牡蠣の養殖の話を持ちかけられました。ちょうどその頃、弟がリストラにあい仕事がなかったこともあって、弟を中心に牡蠣の養殖をやってみようと、いかだ1台分から養殖を始めました。僕は養殖牡蠣の営業を担当し、牡蠣を前に勤めていた水産会社に卸すことにしました。
卸し先で会社の方と漁業の現状について話をする中で、魚の相場を上げるためにも今の漁のやり方を変えていかなければと思うようになりました。今のやり方は、大きな魚から売れない小さなサイズの魚まで獲れるだけ獲って、その日の内に全て売る方法でした。これだと、獲れる全体量が多いため、本来高い値がつく大きな魚に適切な値がつかず、魚全体の価格が下がるんです。しかも、もっと悪いことに、小さいうちに獲るので魚が育たず、卵を産めないため、魚の全体量が減ってしまうのです。魚がしっかり大きくなってから必要な量だけを獲れるよう、規制を導入する必要があると思いました。
それを周りの漁師に説明しても、せっかく獲れた魚をその日に売らないのは勿体ないと、聞く耳を持ってくれませんでした。漁師も、このままでは魚が減るという現状はわかっているのですが、生活がかかっているので一日の売り上げの方が大事なんです。そこで、岡山県の水産課と相談して、試験的に獲る量を管理しながら漁を行い、市場の相場や水揚げ量のデータを取って検証することにしました。
実現しようとしていたのは、資産管理型漁業です。これは、漁師が魚や貝などの資源を獲る量を調整することによって、資源を絶やさずに安定して続けられる漁業のこと。北木島がある笠岡市は海老がよく取れる地域だったため、まず始めに海老の資源管理に取り組むことにしました。
試験運用では、目の大きい網の周りに目の小さい網をかぶせて海老を獲り、出荷は目の大きい網で獲れた分だけにしました。目の小さな網で獲れた海老は数を計測して海に戻し、出荷しませんでした。こうすると、目の大きい網にかからない小さな魚は、海で成長して産卵することができるのです。
市場と協力しながら海老の相場や水揚げの状況をチェック。3年かけてデータを取り続けました。その結果、小さな海老を逃しても相場は変わらないこと、そしてエビを逃すことによって、一日あたりの水揚げ量は減るけれど年間あたりの水揚げ量としては増えることを、数値で証明することができました。
そのデータを見せると漁師たちも納得してくれ、笠岡市の漁港では規定の大きさに満たない海老は取らないというルールが出来ました。さらに近隣の漁港も資源管理型漁業に賛同してくれて、海老以外の魚も規定の大きさ以下では獲らないことになりました。
その頃、家業で弟とよく喧嘩をするようになりました。原因は、弟が父や母、そして親戚にも牡蠣養殖を無給で手伝わせていたことでした。本気で意見を言い合った結果、今後は事務員を雇って体制を整え、会社を立て直していこうという話しになりました。
そんな矢先、弟が交通事故に遭い、亡くなりました。翌日の牡蠣のタネを入荷するため車を運転していた時、止まっていた車にぶつかってしまったんです。本当に突然の出来事で、辛かったですね。牡蠣の養殖を続けようか悩み、牡蠣のタネの仕入れを一旦ストップしました。
しかし、家族で話し合い、弟の仕事を引き継いで養殖を続けようという結論になりました。話し合いの中で、僕の息子が牡蠣の養殖をやってみたいと言ったことや、これからの漁業にとって養殖は必要だと思ったことも続ける決め手になりましたね。そこで、勇和水産を立ち上げて、養殖規模を拡大することにしました。
ストーリーがないと人の心を打たない
養殖牡蠣の規模を拡大しても、物流の知識やバイヤーの人脈があったおかげで、販路には困りませんでしたね。生産量がだんだん増えてきて、100キロ近くになりました。やがて、「牡蠣の販売を独占させてほしい」と言ってきた会社に牡蠣の販売をお願いすることに。しかし、その会社で牡蠣を売り切れず、大量に余らせてしまうという事態が起きたんです。丹精込めて作った牡蠣を軽はずみな態度で扱われて、怒りを覚えました。
それまでは、流通の仕組みを大事にしようと思っていましたが、流通に乗せるだけじゃダメだと思いました。信頼できる卸業の会社以外とは手を切って、自分で販売しようと決めたんです。この牡蠣を自分で営業するとしたらどうセールスするんだろうと想像した時に、何かストーリーがないと相手の心を打たないと考え、牡蠣のブランディングをすることにしました。
ブランディングしたいという想いを周りの人に伝えると、いろんな方が名乗りをあげて助けてくれました。プランナー、デザイナー、資金調達の相談に乗ってくださる方などと集まって話をする中で、まず牡蠣に名前をつけることにしたんです。
うちで養殖した牡蠣は1つ1つ検量し、サイズで分けて販売しています。そこで、サイズ別に名前をつけて、一番小さい牡蠣をひな牡蠣、それより大きなサイズを喜多嬉(きたき)牡蠣、特大サイズを美海(みう)牡蠣としました。さらにそれらを3つ合わせて、出世魚ならぬ「出世牡蠣」として販売することにしました。これは北木島が出世島と呼ばれていることに由来しています。
北木島は花崗岩質で、島から切り出した石は靖国神社の大鳥居や伊勢神宮の橋をはじめ、東京駅や日本の大手銀行など日本の名所に使われています。全国に知られる石となった経緯から、出世島と言われるようになったのです。それから、北木島出身のお笑い芸人がブレイクしたこともあって、この呼び方が定着しました。そういったストーリーと合わせて、出世牡蠣と名付けたんです。独占的に販売するため、牡蠣の販売を行う株式会社SINWAを立ち上げました。
北木島から、牡蠣養殖の取り組みから漁業に活気を
現在は、主に出世牡蠣の養殖と販売を行っています。勇和水産では、養殖の他に、定置網漁や北木島の魚の本土への運搬などを行なっています。株式会社SHINWAでは、牡蠣のブランディングや牡蠣を使った新商品の開発に取り組んでいます。そして笠岡市漁業協同組合北木島支所の支所長として、島の漁業全体も見ています。
我が社の牡蠣の特徴は、安心安全であることと旨み成分が強いことです。安心安全のため、菌の検査を他社の3、4倍行っています。岡山県で唯一、生でも食べられる殻付きの牡蠣として、自信を持って販売しています。ブランディングに力を入れ始めてからは、喜多嬉牡蠣の名に傷がつかないよう、これまで以上に気を配っています。旨み成分については、研究、調査によって北木島の牡蠣は他の地域の牡蠣と比べて、牡蠣を食べた時に感じる旨味成分の数値が飛び抜けて高いことがわかったんです。これは、養殖場の周りに川がなく、淡水が混じらないためではないかと考えています。
さらには、資源管理型漁業を推進することで付加価値をつけていきたいと思っています。商談で買ってもらうためにも、資源管理型漁業を行っている海で育っていることだとか、最近始めた海底・海岸のゴミ清掃を行う綺麗な海で養殖された牡蠣であることを伝えて販売しています。漁師に管理されている美しい海で育った牡蠣だと思っていただけると嬉しいですね。
今一番力を入れていることは、ブランド化した養殖牡蠣を海外に売り出すことです。牡蠣養殖を始めたのが遅かったので、知名度は他の地域と比べてまだまだ劣ります。ブランディングや販路拡大のためにも、海外で認められて日本に逆輸入されることを目標に、海外向けの展示会や商談会に出展しています。
私たちが牡蠣のブランドを確立し、養殖牡蠣が話題になることで、養殖業界全体の底上げになったらいいなと思っています。養殖は、魚が減っている中、漁師が生き残るためにも必要な技術。リスクばかりを考えるのではなく、将来を見据えてリスク回避の方法を考えていくべきだと思っています。
今後取り組んでみたいことは、漁師の後継者不足を解消することですね。構想は大きく分けて3つあって、漁師の育成、退職後の漁師のキャリアサポート、漁業の価値向上です。
漁師の育成と退職後の漁師のキャリアサポートについては、島に漁師の学校を開校したいと考えています。漁の現場では、経験の少ない若い漁師の死亡事故が後を絶たず、心を痛めています。経験豊富な漁師のOBがあらかじめ現場の危険性や安全な漁の方法などを教える学校ができれば、若手が漁の知識を持って現場に出ることができて、辛い事故を未然に防ぐことができます。その上、漁師のOBの雇用を生むこともできるため、学校づくりを実現させていきたいですね。
漁業の価値向上については、まずは笠岡の資源管理型漁業への取り組みを発信していきたいと思っています。また、漁師によるディナーショーの開催も計画しています。漁師が自分の漁に対するこだわりや想いを語り、来場者からの質問に答えたりすることで、多くの人に漁業の良さを知ってほしいと思っています。参加する漁師たちの視野も広がると思いますしね。
これからは、ただ漁業をやっていても、人は増えていきません。面白い活動をしていくことで、活気が出て人が寄ってきて、後継者が増えていくのではないかと思っています。地元の笠岡から、活気のある産業にしていきたいですね。
勇和水産代表取締役を務める傍ら、株式会社SINWA代表取締役も兼務。笠岡市漁業協同組合理事・北木島支所長。岡山県唯一の生食用殻付きの牡蠣を養殖し、販売も行なっている。
※この記事はトマト銀行の提供でお送りしました。
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このインタビュー記事は、外部インタビューサイト
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