アナザーライフ

51歳で鋼板切断工場の経営者へ。 支えてくれた人たちへ
の感謝が、私の原動力。

2018.06.28

三宅ひなこさん/鋼板切断工場経営
株式会社シンキテック代表取締役社長。

【トマト銀行提供】岡山県倉敷市で、鋼材の切断や加工を行う会社を経営する三宅さん。もともと兄が経営する鉄工所に勤務する一社員でしたが、51歳のとき、2人の息子とともに独立を決断します。苦境に立っても下を向かず前進し続ける、三宅さんの想いとは。お話を伺いました。

辛くても泣いたりしない

岡山県高梁(たかはし)市の山奥の地域で生まれました。5人兄妹の末っ子で、上には兄が4人います。いつも兄たちに交じって遊んでいて、木登りや魚獲り、山菜採りなどが大好きな子どもでした。村では男勝りな女の子として名が通っていましたね。

とにかく田舎なので、小学校に通うのに、毎朝10キロのけもの道を歩きました。道中には傾斜が30度以上の急な坂があり、学校にたどり着くだけで一苦労。ほとんど遅刻していましたね。それでも6年間、1日も休まずに通ったので足腰が丈夫になりました。

中学2年生になった時、家族で市街地へ引っ越しました。以前住んでいたところに比べると、ずいぶん都会だなと感じました。転校した中学校には、野山で遊びまわっているような子はいませんでした。私は毎日外で遊んでいたので、肌は日焼けで真っ黒。新しい学校ではそれをからかわれ、同級生から陰で「くろんぼ」と呼ばれて無視されるようになりました。

嫌でしたが、そこで泣いたりはしませんでした。これまで田舎の山道にも負けずに育ってきましたから、忍耐強かったんです。「一人でも友達がおれば、あとはなんとでもなるわ」と思って、無視する人は無視すればいいと開き直りました。そんな態度を取っていたら、周りもだんだん普通に接してくるようになり、いつの間にか馴染んでいましたね。

兄が鉄工所の経営を始めるというのに影響を受け、将来は何か商売をしたいと漠然と思うようになりました。勉強して大学に行こうという気もなかったので、仕事の役に立つことを学ぼうと商業高校に進学しました。

私もなにかやってみたい

高校では簿記や経理など、商業の基礎を身につけました。早く働きたいと思っていたので、進学せず就職することに迷いはありませんでした。商業に関わる仕事なら特に職種にこだわりはなく、お給料がよかった大手住宅メーカーに就職しました。

楽しく働いていましたが、しばらくすると、兄から「工場を手伝ってくれ」と声がかかりました。そこで、兄の経営する鉄工所で事務などをすることになりました。結婚して子どもを産み、別の会社で働いていた時期もありましたが、子育てがひと段落すると再度兄に手伝いを頼まれ、また鉄工所に戻りました。

はじめは経理をしていましたが、やがて工事費の見積もりなどを行う積算を任せられるようになりました。たとえば、鉄工所の経営者と一緒に、柱がいくら、梁がいくらというように材料ごとの金額を出し、それをまとめて億単位の金額を決定するんです。

この仕事をする中で、鉄工所の経営者とお話しする機会が増え、積算部門を担当する同業者とのつながりもできました。そういう方々と話をする中で、私も何か商売をしてみたいという思いが湧いてきました。

やるからには儲かる仕事がいいなと考えていたとき、ふとすごい金額の請求書を見つけました。切板屋さんの請求書です。顧客の要望に応じて、鋼板をさまざまな形に切断するのが切板屋、つまり鋼板切断工場です。「切板屋さんって儲かるんだ」と驚くとともに、できるならそういう仕事をしたいなと思いました。

51歳で独立、工場の経営者へ

兄の工場では責任の大きな仕事を任されるようになり、やりがいを感じていました。一方で、自分で何か事業をしたいという気持ちも捨てきれませんでした。

そんな51歳になったある日、知人から「工場をやらないか」という話をもらいました。

兄の鉄工所とも取引があった工場のオーナーが、経営をやめるから、鋼板切断の工場を設備ごとそのまま貸してくれるというんです。しかも客先まで引き継いでくれると。話を聞いてすぐに、「こんなチャンスはなかなかない」と思いました。商売をしたいとずっと思っていましたし、気になっていた鋼板切断の工場です。

経営の経験はありませんでしたが、私には兄の鉄工所でずっと働いてきた知識と経験、人脈があります。いけるんじゃないか、と直感的に思いました。

ただ、パソコンも満足に使えない私一人では、工場内部のことは分かりません。そこで、主人と2人の息子に相談しました。

主人は別の会社で働いており、「この設備ならできるんじゃないか」と賛成してくれました。息子たちも、「いずれ自分たちの会社になるんならいいよ」と会社の設立に賛同し、社員として働くことを承諾してくれました。

家族みんなの協力が得られて、勇気が湧きました。「やってみてダメでも、なんとかなるだろう」と覚悟を決め、会社を立ち上げました。

自分が責任をもって設立した会社なので、事務処理から仕入れ、配達、集金まで、できることは何でもしました。目の回るような忙しさでした。ところが、業務を開始してしばらくすると、工場内部を担当する息子たちから「新しい機械を導入しないと、事業を続けるのは難しい」と言われたんです。

もともと工場にあったのは古い機械で、生産性が低く、月に切断できる板の本数が決まっていました。これではいくら寝ずに頑張っても、月の売り上げは頭打ち。これじゃ面白くないし、事業の成長も見込めないと息子たちは言いました。

言い分はわかっても、新しい機械は2000万円以上もする代物です。そんなお金はない。しかし、このままでは生産性が低いままで、事業の成長は見込めない。悩んだ末、県の振興財団にお金を貸してほしいと頼みました。

すると、担当者の方はあっけないほど簡単に、融資を許可してくれたんです。なんの保証もない私たちにどうして貸してくれるのか、尋ねると「僕は、家族で仕事しているところが好きですから」と言ってくださいました。ありがたい気持ちでいっぱいです。

そのお金で、図面データに基づいて板を切断できる新しい機械を購入することができました。取引先とのやりとりが円滑化しましたし、生産性も飛躍的に向上しました。息子たちが真剣になって機械の使い方を覚え、使いこなしてくれたおかげで、売り上げが一気に伸びました。

どん底から一歩ずつ

経営が軌道にのってきたある日、大家さんから工場の立ち退きを迫られました。いつまででも使っていいと言ってくれていたんですけど、事情が変わったということで、工場を移転しなければならなくなりました。

なかなか適当な土地が見つからず困っていたところ、地元のトマト銀行から倒産した大きな建設会社の跡地を紹介してもらいました。弊社の年間の売り上げよりも高額な土地だったので購入に不安を感じましたが、思い切って移転することにしました。

そのころ、ニュースでサブプライムローンの話が取り上げられ始めました。変なニュースだなと思いながらも、アメリカだから関係ないだろうと、10月に新しい工場で業務をスタートさせました。

11月から営業を展開したんですが、なんだか空気がおかしいんです。いくら待っても注文の電話がこない。顧客に話を聞くと「建築自体がみんな止まっているよ」と。建築が止まってしまったら、その材料となる鋼板を加工する私たちに仕事はありません。ようやく事態の深刻さが分かりました。

リーマンショックで工場の売り上げは落ち込み、とても借金を返済できる状況ではなくなりました。バブル崩壊は経験していたものの、多額の借金を抱えたタイミングでこんな不況が起きるなんて、夢にも思っていませんでした。

気落ちしましたね。人間って、本当にどうしようもない状況になると、何かのせいにしないと生きて居れないというか。「工場の方角が悪かったんかな」とか、本気で考えました。それくらい、どうしたらいいかわかりませんでした。

しかし、自分の責任で作った会社ですから、どうにかしなければいけません。複数の融資先と合同で、借り入れの条件を変更して、再度返済計画を立てました。もうその時は、失敗したことへのショックよりも、責任を果たせず申し訳ないという思いが先に立って、すごく苦しかったです。

そこから2年間、新規の取引先を開拓するために、息子と四国まで地道に営業をかけに行きました。ただ鋼板を切断するだけでは仕事をいただけないので、お客さんが求めるサービスを提案するようになりました。

たとえば、本来ならいくつかの工場に頼まなければいけない工程を、うちの工場で一括してやるとか、どんな図面が来ても対応できるよう、材料を豊富にストックするとか、工場に製品を運ぶとき、その後の作業がしやすいように配置や梱包の方法を変えるとか。製品の使い勝手の良さや、お客さんの手間の軽減を目指していろいろな工夫をしていきました。

すると、徐々に新規のお客さんが増え始め、信頼して仕事を任せていただくことが増えていきました。

相手からの感謝が原動力

現在も、鋼板を切断、加工する株式会社シンキテックの代表を務めています。注文通りに板を切ったり、穴をあけたり、溶接の強度を出すために削ったり、さまざまな機械を使って要望に合わせた加工をしています。

1つの建造物をつくるにしても、実は多くの切板が必要で、建物全体の材料の中で約30%を占めることもあります。板が設計図と違っていたり納期に遅れたりしたら、工事自体が止まってしまうので、正確に、迅速に加工することが求められます。どの製造業もそうですが、とても責任のある仕事だと日々感じています。有名なところでは、スカイツリーにも私たちの加工した板が使われているんですよ。

少しずつではありますが、経営も改善してきました。借金はありますが、弊社の板を好んで使っていただけるお客さんも増えています。最近では、老朽化して動かなくなった機械に代わり、省エネタイプの機械を導入したので、さらに生産性を向上させて利益を上げられるようにしたいと考えています。

また、従業員の働く環境をより良いものにしたいです。今はみんなでゆっくり食事をとる場所もない状態なので、休憩所を整備するつもりです。さらに、人手不足で働く時間が長くなってしまうので、機械を導入して無人化を進め、設備で人手をカバーしようとしています。会社をより良い状態にして息子の代にしっかりつないでいけるよう、今は自分にできることをして、強い会社にしていかなければと考えています。

一時は、リーマンショック後をどう生き抜いていくか、それしか考えられないこともありました。それでも、転機ごとにたくさんの良い人に巡り会い、声を掛けてもらったおかげで、前を向くことができたんです。苦しんだからこそ、喜びが何倍にもなりました。

これまでの長い人生、本当にいろいろな人に助けてもらった。そのことへの感謝が私の原動力です。恩に報いるためにも、自分たちの責任を果たし、家族ひとかたまりとなって、お客様に喜んでもらえる製品を作っていきたいです。

三宅ひなこさん/鋼板切断工場経営
株式会社シンキテック代表取締役社長。

※この記事はトマト銀行の提供でお送りしました。

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このインタビュー記事は、外部インタビューサイト
・アナザーライフ
https://an-life.jp/
にも掲載されています。

執筆者

日本情報マート

中小企業の頼れる情報源として、経営者の意思決定をサポートするコンテンツを配信。「開業収支」「業界動向」「朝礼スピーチ」など2000本を超えるコンテンツを有するほか、年間200件以上の市場調査も行っている。現在、50を超える金融機関に情報提供を行っている。