アナザーライフ

まずやってみることで近づいた、昔からの夢。 介護施設か
ら地域へ、世界へ笑顔を広げる。

2018.07.30

岩藤泰茂さん/介護施設・保育園運営
NPO法人ほがらか西市代表。アメリカ留学、大手企業勤めを経て地元岡山に戻り、現在は介護施設・保育園を運営。夢は、世界中の人々が笑顔で暮らす美しい地球を、子どもたちに残すこと。

【トマト銀行提供】生まれ育った岡山で、父親の想いを継いでゼロから介護事業を始めた岩藤さん。自分を変えるためにアメリカ留学を決断、世界への興味を持ちます。会社勤めを経て地元に戻り、会社設立とパソコン教室運営を経験した岩藤さんが、地元岡山でかなえようとしている夢とは。お話を伺いました。

暗い自分を変えたかった

岡山市南区西市で生まれました。幼い頃から大人しく几帳面な性格で、決められたことをきっちり守らないと気が済まない子どもでした。善と悪があったら、どんなことがあっても善を選ぶタイプでしたね。

そのため、中学2年生くらいになって、人生は決まり通りにいかないものだと気づき始めた時には非常に落ち込みました。例えば、信号は必ず守りたいと思ってもどうしても守れない場合もあるんだ、とかね。人生には善を貫けないこともあるという事実に悩むような子どもでした。

また、色んなことに敏感で、歩く、食べる、何をするのにもすべて「なんでこうなんだろう」とか考えこんでしまうタイプでもありました。友達はそんなにいなかったですね。

それでも、中学校までは成績は上の方で、学級委員もしていました。しかし高校に入るといろんな面で優秀な人がたくさんいたので、私自身は誰から注目される訳でもなく、底辺で静かにしているような暗い毎日でした。

もう嫌でしたね、そういう自分が。だから大学に進学した時に、ここで自分自身を叩き壊そうと思いました。そのためにどうしたらいいか考えたら、環境を変えるのが一番じゃないかと思いついたんです。全くの別世界、日本人がいない、日本語が喋れない、そんなところに行こう、とね。

とはいえ、そんな無茶苦茶な考えの自分がいる一方、人生を踏み外してはいけないという根っから真面目な自分もいました。そのため、将来を考えると大学に行って就職した方がええなとも思いました。色々考えた結果、アメリカの大学に留学することに決めました。英語は苦手でしたが、運が後押ししてくれて、ロッキー山脈近くのコロラドカレッジに入学できることになりました。

無我夢中のアメリカ時代

海外での大学生活は、日本人は自分の他に一人いるかいないかという環境でした。英語は得意ではなかったですが、そんなこと言ってられない状況でしたね。授業で分からないことがあったら、教授に英語で質問しないといけないわけです。最初は怖じ気づいていたんですが、そのうち、まずノックしてみようと決めました。一度ノックしたら、嫌でも部屋に入って英語で喋らないといけないですからね。とにかく飛び込んでみることにしたんです。

プレゼンの授業では、私の変な英語をクラスメイトにクスクス笑われたりもしました。それでもやるしかないから話し続けると、授業後にクラスメイトが「笑ってごめんな」と謝ってくれました。言われた時は涙が出ましたね。そうやって無我夢中で生活しながら、どんな環境にも飛び込んでいく肝っ玉を身につけていきました。

留学生活終盤、自分としては「日本には帰らんぞ!」と思っていたんですが、親には帰ってこいと言われました。ちょうど姉の結婚式があったのでその前日にひとまず帰国しましたが、まだアメリカでやり残したことがいっぱいあったのですぐに戻るつもりでいました。

しかし、その結婚式に来ていた新郎のいとこである女性と見合いをすることになり、早々と婚約することになったのです。そうやって帰国後の生活にだんだんと染まっていったものですから、結局アメリカには戻りませんでした。

夢をみつけた会社員時代

大学卒業後に就職した会社では、入社してすぐに海外の大学留学と海外事業所研修の社命を受けました。非常に行きたかったんですが、婚約していたことでだいぶ悩みましたね。ここが人生の岐路だと思いましたが、迷った末に結局断ることにしました。

その後、国内営業の部署に配属になりましたが、やっぱり海外に関わりたい気持ちが強く、海外に輸出営業をする部門に異動しました。海外出張が多い部署で、外国の方と英語で交渉しないといけないこともしばしばでした。アメリカで1人で商品のプレゼンをするときも、恥ずかしい英語でなんとかやり遂げました。やるしかないと飛び込めば、うまく話せなくても気持ちは伝わるんだと感じましたね。英語ができないということが、私の精神修養になりました。

その頃、犬養道子さんの『人間の大地』という本に出合い、南北問題について知りました。途上国の生活は食べるものもないほど厳しく、我々先進国は彼らから搾取して生活している。その実態を知って、何とかしないといけないという気持ちが湧き上がってきました。そのために、現代の子ども達に途上国の様子を知ってもらいたいなと思いました。そういったことを知らせることのできる場所、みんなが集まって語り合うことができる場所を作りたいと漠然と思うようになりました。

故郷・岡山に戻り、地域の人と繋がる

34歳の時に突然父が脳の病気になり、家族に呼び戻され地元に帰りました。海外との接点を持ちたいという強い気持ちはありましたが、今後の生活のことを考え、まず税理士事務所で働き始めました。

しかし2年ほど働いた頃、企業でエンジニアをしていた義理の兄とコンピューターのソフト制作・販売の会社をつくろうと意気投合し、税理士事務所をやめて起業することにしました。海外でプログラムを組んで日本で販売できないか試行錯誤したんですが、初めての経験で難しく、結局事業化には至りませんでした。

ひとまず地道にやっていこうということで、義兄のほうは企業のコンサルタントを、私はパソコンが好きだったのでパソコン教室を運営することにしました。教室には生徒さんが結構来てくださって、毎日朝から晩まで忙しく働いていました。

合間の時間を使って色んな地域ボランティアもしました。自営業だと時間が自由だと思われて、どんどん声がかかるんですね。小学校のPTAの会長、体育協会や町内会の役員、小学校の地域コーディネーターなどなど、あらゆるボランティア活動を経験させていただきました。

学生時代はあまり地元の人と話をしていなかったですし、大学を卒業してから付き合う人間といったら仕事関係の人だけでした。だから、会社以外の人間と会うのはどちらかというと苦手だったんです。でも、地元に帰って来てパソコン教室やボランティア活動をしながらみんなと話をしていたら、段々と慣れてきましてね。色んな人と関わることができるようになって、気がついたら会社員時代に想い描いていた「みんなで集まれる場所」が少しずつ実現していました。

そんな時、ネットワーク「地球村」代表の高木善之さんの講演会に参加し、非常に感銘を受けました。地球環境の危機的状況を知り、ひとりひとりの生き方、考え方を変えていかなければ、人の住みやすい地球環境を次の世代へ残すことが難しくなると感じました。以前読んだ犬養道子さんの本とも相まって、「南北問題や環境問題を何とかしたい!」という思いがより強くなりました。

ゼロから始めた介護事業

地域にもすっかりなじんで来たころ、父が自分の土地に建てた介護施設で、運営の担い手がいなくなるかもしれないという事態が起きました。運営していた組織の理事長が体調を崩され、適当な後継者が見つからないというのです。

この介護施設は、父が「高齢者のための公共的な施設を建てたい」と言ってつくった施設でした。土地と建物だけ用意して、運営は別の法人に任せていたんです。その運営の担い手がいなくなってしまうというので、施設をどうしようか悩みました。父の強い想いがあってできた施設であり、以前から私自身の中にも「この施設がもっと地域と融合したものになればいいのに」という気持ちがありましてね。かなり迷いましたが、ふと腹をくくったような気持ちになって、「よし、やったろうじゃないか」と思ったんです。

介護に関しては素人でしたが、素人だからできないと甘えてたら何やってもだめだろうと思いましたし、逆に素人だからこそ感じること、新鮮な目だからこそ見えるものがあるんじゃないかなという思いで自分を奮い立たせました。

職場の人間関係の問題や、トップとしてどうやって職員と接していけばよいのかなどかなり悩み、落ち込んでしまったことも何度かありました。それでも、何事も自然に、あるがままにいこうという想いを持ち続けて踏ん張りました。素人だと笑われるかなとか色々不安もありましたけど、肩肘張らず、素直に自分らしく頑張ればいいと考えていましたね。

開業当初から、ここの施設を“自然と笑顔になれる場所”にしたいと思っていました。何よりも利用者様に楽しく笑顔になってもらいたい。そのためにやれることはとにかくやってみました。壁を明るい色に塗り替えたり、ほがらかマークというものも作ったり。また、職員とコミュニケーションをとることが大事だと考え、職場の風通しをよくしようと、以前あった理事長室は全部取っ払って、自分も他の職員と一緒の部屋で働くことにしました。

色々と試行錯誤した初年度でしたが、有り難いことに、1年経った頃には住居施設の部屋が満室になりました。入居者のみなさまにも気に入って頂けているようで、入院していた病院から戻られた人も「我が家に帰ってきたような気持ちだわ」と言ってくださるようになりました。

地域の笑顔から平和な世界を目指す

今は、介護施設の運営を続けており、施設併設の保育園も建設中です。

かつては日本のどこにでも、親・子・孫3世代が同じ屋根の下で暮らし、お互いが助け合いながら生活する大家族がありました。今は失われてしまった大家族を、この場所で実現したいというのが、介護施設を受け継いだ時からの私の想いでした。

保育園というと、介護施設の利用者様のひ孫の世代にあたりますが、世代を超えた交流はきっと素晴らしいものをもたらすことができると思っていました。その思いをずっと秘めていたものですから、介護施設での家族会でチラッと「保育園をやってみたいですね」と言ったんです。私の中では、いつか近い将来にという思いだったのですが、ある職員に「理事長、保育園作るって言ったでしょう」と言われまして。その言葉に「その通り。今、思い切らなければいつまでたってもできない」とハッとして、企業主導型保育園という制度で始めることにしました。

入居者のみなさんも「早く子どもに会いたいなあ」と、保育園ができるのをすごく楽しみにされてるんです。それを見ると、私もとても嬉しいんですよね。

介護事業を始めた時の目標はこの施設を明るくすることでしたが、今は保育園を加えたこの施設から明るさを発信し、地域を明るくすることです。というのも、地域が明るくなれば平和な世界ができると思っているんです。

少し大きな話になりますが、「世界平和を築くのに、国際会議や、武器は入らない。笑顔を隣の人に見せること。あなたは、すぐにできるのですよ」というマザーテレサの言葉があります。本当にそうだと思うんですね。まずは、私自身が、職員が笑顔になる。そして利用者様に笑顔になってもらって、それから地域の方に笑顔になってもらう。飛躍しすぎかもしれませんが、そうすればきっと平和な世界はつくれると思っています。「世界中の人々が笑顔で暮らす美しい地球を、子どもたちに残すこと」。これが今の、私の夢です。

これまで流されながら生きてきましたけど、周りに言われるがままに色んなことを引き受けてきたら、不思議と昔から抱いていた夢に引き寄せられてきたという感じです。今はこの夢に向かって、持ち前の「とにかくやってみる」精神で頑張ってみようと思っています。

岩藤泰茂さん/介護施設・保育園運営
NPO法人ほがらか西市代表。アメリカ留学、大手企業勤めを経て地元岡山に戻り、現在は介護施設・保育園を運営。夢は、世界中の人々が笑顔で暮らす美しい地球を、子どもたちに残すこと。

※この記事はトマト銀行の提供でお送りしました。

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このインタビュー記事は、外部インタビューサイト
・アナザーライフ
https://an-life.jp/
にも掲載されています。

執筆者

日本情報マート

中小企業の頼れる情報源として、経営者の意思決定をサポートするコンテンツを配信。「開業収支」「業界動向」「朝礼スピーチ」など2000本を超えるコンテンツを有するほか、年間200件以上の市場調査も行っている。現在、50を超える金融機関に情報提供を行っている。