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政治・経済変えた「パリ協定」、採択から10年…「最高の
COP」の舞台裏

2026.01.23


2日間徹夜で歴史的合意

 温暖化対策の国際ルール「パリ協定」がフランス・パリで2015年12月12日(日本時間13日)に採択されてから10年を迎える。温室効果ガス(GHG)排出量実質ゼロを目標に掲げたパリ協定は、企業活動や政策を大きく変えた。パリ協定採択からの変化を3回連載で振り返る。初回は、歴史的合意を生んだ気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)。

 パリ時間の15年12月12日正午前、各国の閣僚たちが腕を組みながら壇上に登場すると、議場に拍手が起きた。中心にいたCOP21のファビウス議長(当時のフランス外相)が「合意しよう」と呼びかけると、各国の交渉官も「合意するぞ」と盛り上がった。環境省の大井通博審議官(当時は国際地球温暖化対策室長)は、高揚感を覚えたが「肝心のテキスト(合意文書案)がないんだけど」と戸惑った。この時点で議長からは合意文書案が示されていなかった。しかし、歴史的な合意への環境が整った。

 COP21は「最高のCOP」と呼ばれる。逆に「最低」は09年にデンマークで開かれたCOP15。「京都議定書」の後継となるルールを決めるはずだった。京都議定書の参加国は先進国37カ国・地域だけ。日本を含む先進国は途上国にもGHG排出量の削減を求めたが拒絶され、「ポスト・京都」の合意に失敗した。

 「COP限界論」がささやかれていた11年の南アフリカでのCOP17。議場で閣僚級が膝詰めで話し合い、新ルールは「20年以降に開始」「15年のCOP21で決定する」「条約の下で、すべての国が参加する」ことに合意し、決裂を回避した。当時から交渉官を務めていた大井審議官は「すべての国の参加が画期的。思い返すとパリ協定の骨格ができた」と振り返る。

 13年のポーランドでのCOP19で、各国が自主的に目標を決めることにした。交渉によって各国の削減義務を決定する京都方式から転換し、参加ハードルを下げた。14年には米国と中国が首脳会談で一緒に目標を発表するなど、世界の主導者たちも新ルール合意を後押しした。

 そしてCOP21が開かれる15年に突入したが、事前交渉は難航。先進国が厳しいルールを求めると、途上国は見返りに資金を要求して交渉が停滞。COP21が同年11月30日に開幕したが、各国の主張が集約されないままの分厚い交渉文書をベースに議論することになった。

「次はない」 参加国に切迫感

 会議1週目が終わるころ、日本の交渉団は丸川珠代環境相(当時)に予定より早いパリ入りを要請した。ファビウス議長が閣僚級会合を前倒しようとしている雰囲気を察知したからだ。

 予想通り、1日早く閣僚級会合がスタート。12月9日、10日とも夜になってから閣僚らが会議室にこもり、未明まで議論が続いた。最終日の11日を迎えると、議長は「1日延長する。話がある人は議長室に来てほしい」と告げた。丸川環境相も議長室前の行列に並んだ。

1日早くパリに入って連日の徹夜交渉にのぞんだ丸川珠代環境相(当時=環境省提供)

 そして翌12日正午前、議場に閣僚たちが腕を組んで登場。機運が十分に高まってから議長は合意文書案を示し、同日夜に「パリ協定」が生まれた。議長が採択を告げると出席者が総立ちになった。その場面はフランス国内で生放送された。

 大井審議官は「合意できない最悪のシナリオも考えた。歴史的だった」と採択の瞬間を思い出す。海外の交渉官にも顔なじみが多い。京都議定書に不参加だった米中が新ルールへの参加を表明しており「どの国にも、この機会を逃すと次はないという切迫感があった」と成功の原動力を振り返る。

 そして合意に導いた議長の手腕をたたえる。「2日間の徹夜の議論で合意は無理という雰囲気を作った。各国の意見を聞いて議長は信頼を得た」(大井審議官)ことで、すべての国が賛成した。「フランスは国家の威信をかけ、緻密だった」(同)と舌を巻く。

 議場の外でも欧米企業の関係者が合意を祝った。事業の制約であるはずの脱炭素が、経営の最優先課題へと変わった。

日刊工業新聞 2025年11月28日

松木喬 Matsuki Takashi 編集局第二産業部 編集委員
10年前と比べ、光景が変わったと思います。当時、「30年26%減」(約束草案)を見直せとの主張がありました。今もその提言書を持っていますが、10年でだいぶ論点も変わり、「どうやってネット・ゼロにするか」という議論が中心になりました。

出典:ニュースイッチ Newswitch by 日刊工業新聞社